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長篠の戦い(長篠城址)
       
愛知県新城市長篠


575(天正3)年、織田信長・徳川家康連合軍3万8千と、武田信玄の後継者・勝頼の軍1万5千が設楽原(したらがはら)(愛知県新城市)付近で激突。名勝・馬場信房ら武田側の多くの武将が討ち死にして、武田軍は大敗した。勝利した信長は天下統一に大きく近づいた。これまで「鉄砲三千丁・三段撃ち」が通説だったが、近年は疑問視される傾向が強くなっているという。敗走した勝頼はこの戦いの7年後、信長の甲州征伐で追い詰められて自害した。
 
天正3年(1575年)5月8日、500の兵が立てこもる難攻不落の長篠城に、来たる勝頼軍は1万5千の兵
なんとか地の利を生か
し全滅は避けていたものの、圧倒的な兵の差に既に勝敗は決していた。
信昌は家康の治める岡崎城に使いをよこし援軍を頼もうとするも、周囲は1万5千の兵に囲まれている。
誰がどう見てもムチャなこの状況で、「某にお任せ下され」と頭を垂れたのがこの鳥居強右衛門であった。 

 14日、強右衛門は夜陰に乗じて火計を使い城を脱し疾風の如く敵陣をすり抜け、翌15日午後に岡崎に到着。
家康は信昌の懇願に首を縦に振り、
3万人もの援軍がすぐさま岡崎を立った。 
 急ぎ強右衛門は長篠に戻るも、運悪く勝頼の手下に見つかってしまう。彼が家康の間者だと気づいた勝頼は、
「今から『援軍は来ない』と叫べば自由にしてやる。言わねば即死刑に処す」
と一計を案じた。
強右衛門は呆然とするも、しばし考えた末に「わかりました。では命だけは
お助け下さい」とその命令に従った。 

 そして時は来た。勝頼たちは強右衛門を引き立て、長篠城の前で晒し者にした。 
「よいか奥平よく聞け! これが徳川からの返答だ!」 
 勝頼のその発言の直後、強右衛門は叫んだ。 

「援軍は…あと2,3日で必ず来るぞ!!! だから!! 生き抜け!!! 何があってもだ!!!」 

 呆然とする勝頼軍とは裏腹に、鬨の声が上がる長篠城。 
 すぐさま強右衛門は殴り倒され、縛り上げられ、十字架にかけられる。彼が「助けたかった」命とは、
「自分以外の全ての奥平軍」の命に他ならなかったのだ。 

 かくして名も無き足軽が拷問にされて2日後、彼の言葉通り、本当に援軍は来た
こうして信昌は首の皮一枚繋がり、時代は戦術の歴史を変えた戦い
に突き進んでいくのである。 

 生年不明(1540年説が一般的)、1575年没。享年36歳。 
 死から300年経つ今でも、地元では彼を偲ぶ催しが開かれている。